服は、買うものではなく、つくれるものだった
ー 幼少期は、どんな子どもでしたか?
小さい頃から、絵を描くことや服に興味がありました。
大きかったのは、母が服を作れる人だったことです。「こんな服がほしい」と言えば、実際に形にしてくれる。だから私にとって服は、お店で買うだけのものではなく、自分の手で生み出せるものでもありました。
小学生の頃から、服のデザインのようなものを描いたり、「こんなものがあったら素敵だな」と想像したりする時間が好きでした。
今振り返ると、この頃からすでに、自分だけの世界観を形にしたいという感覚があったのだと思います。
「ここにはいたくない」と感じた高校時代
ー 服飾の道へ進むきっかけは何だったのでしょうか?
高校時代、毎週のように朝テストがある学校に通っていました。みんなが点数や順位の中で頑張っている姿を見ながら、ふと思ったんです。
この中で勝ち抜いたとしても、一生この競争を続けるのだろうか、と。
誰かと比べられる価値観の中で生きることに、強い違和感がありました。いい大学へ行って、大きな会社へ入って、またその中で競争していく。そういう人生が見えた時に、「自分はここにはいたくない」と感じたんです。
唯一無二で、誰とも比べられないもの。自分がゼロから生み出せるもの。そこへ行きたいと思いました。
それが、服飾の道へ進む大きな出発点でした。
昼はデザイナー、夜はパタンナー
ー 企業デザイナー時代は、どんな経験でしたか?
服飾短大、専門学校で基礎を学んだ後、企業デザイナーとして働き始めました。
ただ、私はデザインだけで終わりたくなかったんです。将来自分の世界観を作るなら、パターンも構造も理解しなければいけない。そう思って、会社に「パタンナーも兼任したい」と伝えました。
昼間はデザイナーとして働き、夕方からはパタンナーの仕事をする。終電まで働くような生活でしたが、当時は服が好きだったので、楽しいという感覚の方が大きかったです。
服をデザインするだけではなく、その奥にある考え方や生き方まで表現したい。その感覚は、今の帯クチュールにもつながっています。
一度来た風を、自分で止めた日
ー 20代で一度、自分の服を売る経験もされたそうですね。
大阪の堀江に、5年で取り壊される予定のビルがありました。「何をしてもいい」という場所で、住人たちはそれぞれお店のようなことをしていました。
私も会社員をしながら、友人と土日限定で洋服屋さんをしました。自分で作った服を並べ、内装も自分たちでペンキを塗って。本当に楽しかったです。
そこから百貨店に出しませんか、という話もいただくようになりました。
でもその時、独立するか、企業デザイナーを続けるかという選択が生まれました。私は企業デザイナーを選びました。もっと学びたいと思ったからです。
ただ、一度来た風を自分で断ち切ると、無風になるんですよ。自分の名前で動いていたあの時の風は、一度止まってしまった。そこから長い無風の時間が始まりました。
大量生産の裏側で見た違和感
ー 20年以上の企業デザイナー時代に、どんな葛藤がありましたか?
服の仕事は大好きでした。自分が作った服が売れることは嬉しかったですし、服に関われること自体が幸せでした。
でも一方で、大量生産・大量消費の構造の中にいることへの違和感はずっとありました。
服は、一番輝いて見える場所にあります。お店に並び、誰かが手に取り、身につけてくれる。でもその裏側では、作る人も、売る人も、関わる人たちも、どこかで無理をしている。
こんなに幸せなはずの仕事なのに、どうして人を不幸にしてしまうのだろう。
その問いを、ずっと持っていました。
だからこそ、自分がいつか外に出るなら、同じことはしない。数を作りすぎない。オーダーメイドにこだわる。一人の人のために、本当に必要なものを作る。
今の私の仕事の根底には、その20年以上で見てきたものがあります。
子どもが、私の顔を忘れてしまった日
ー お子さんとの出来事が、大きな転機になったと伺いました。
結婚して子どもを産んでからも、私は仕事にのめり込んでいました。仕事が好きだったからこそ、止まれなかったんです。
でもある時、子どもが私の顔を忘れてしまったんです。人の顔を認識し始める、一歳前後の頃でした。
その時、「私は何のために生きているんだろう」と本気で思いました。
大好きな服の仕事なのに、自分の一番近くにいる大切な存在を悲しませている。社会の構造としても、人を幸せにできていないと感じていた。そして自分の家庭の中でも、同じことが起きている。
これは変えなければいけないと思いました。
ただ、すぐに人生が変わったわけではありません。目が覚めたような感覚はありましたが、行動に移すまでには時間がかかりました。そこからまた、しばらく無風の時間が続きました。
「ファッションショーをしたい」と言った時
ー そこから、どうやってもう一度動き始めたのでしょうか?
ある時、「ファッションショーをしたい」と人に言ってみたんです。
でも返ってきたのは、応援の言葉ばかりではありませんでした。「お金がかかる」「もっと着実な人生を選んだ方がいい」と言われることもありました。
それでも私は、ここで降りてはいけないと思いました。
20代の時に一度来た風を、自分で止めてしまった。その結果、長い無風の時間を経験した。もし今またこの風を逃したら、次は20年後、30年後かもしれない。
だから、今度は乗るしかないと思いました。
国内のファッションショー、雑誌掲載、海外の話。少しずつ届くようになったチャンスに、全部乗ることにしたんです。
そこから、人生がもう一度動き出しました。
ブランドの始まりは、帯ベルトだった
ー ブランドを始める時、なぜ帯ベルトからだったのですか?
最初からジャケットやドレスを大きく展開したわけではありません。あえて、帯を使ったベルトから始めました。
それは戦略的な判断でした。
帯ベルトなら、いろいろな服と合わせられます。お店に置いてもらう時も、既存の服と競合しにくい。「このお店の服にも、このベルトは合いますよね」と言える。競争ではなく、協力の関係を作りやすいアイテムだったんです。
最初は13,000円からスタートしました。周りからは「3,000円なら買う」と言われたこともあります。でも私は、価格を下げてまで合わせないと決めました。
半年ほどすると、「このベルト、13,000円なら安いですね」と言って買ってくださる方が増えてきました。客層が変わったんです。
そこからワンピース、ジャケット、ドレスへと広がっていきました。
帯クチュール。帯を、構造として見る
ー 「帯クチュール」とは、どんな考え方ですか?
着物は、帯がないと成立しません。
でも多くの人は、着物の柄には目を向けても、帯を主役としては見ていないように感じます。帯は中心にあるのに、どこか脇役のように扱われてきた。
私は、そこに違和感がありました。
帯を、飾りではなく構造として見る。支えるもの、中心にあるもの、でも表に出てこなかったものを、もう一度可視化する。それが「帯クチュール」という考え方です。
これは、服だけの話ではありません。
世の中には、脇役だと思い込まれているものがたくさんあります。でも本当は、そこにこそ構造の中心があるかもしれない。
帯を通して伝えたいのは、自分で選ぶ感覚を取り戻すことです。アルゴリズムや数字、周囲の評価に選ばされるのではなく、自分の感性で選ぶこと。
帯が主役になるというより、人生そのものが主役になる。
私がやっていることは、すべてそこにつながっています。
パリで伝わった、言葉を超えた美学
ー 海外での発表は、どんな経験でしたか?
パリ・ファッションウィーク期間中にコレクションを発表する時、15体のドレスをスーツケース2つで持っていきました。
普通なら入りません。だから私は、現地で組み立てられるように、パーツとして平面で持っていったんです。立体のドレスを、二次元で運び、現地で三次元に戻す。それは、平面の帯が身体にまとうことで立体になり、装いを支えるという帯クチュールの考え方にもつながっていました。
パリでは、言葉が通じなくても作品から受け取ってくれる人がいました。「伝統」という見方だけではなく、構造的で、彫刻的なものとして見てくれたんです。
日本にいると「着物リメイク」という言葉で見られることもあります。でも私がやっているのは、古いものを作り替えることだけではありません。帯や着物に宿る美意識を、今の時代の身体感覚やファッションの中でどう立ち上げるか。その視点で受け取ってもらえたことが、とても大きかったです。
海外から日本を見ることで、自分の表現の輪郭がよりはっきりしました。
服は、言葉がなくても伝わることがある。同時に、言葉にすることでさらに深く伝わることもある。だからこそ、ショーだけで終わらせず、雑誌や展示も含めて立体的に伝えていきたいと思うようになりました。
光と影の中で、なお美を選ぶ
ー 現在は、どのような想いで活動されていますか?
今は、MAYA HASEGAWA Obi Coutureとして、帯クチュールを軸にしたオーダーメイド制作、コレクション発表、演出活動を行っています。カンヌ国際映画祭の衣装デザイン、海外アート雑誌への作品掲載など、表現の場も国内外へ広がっています。
でも、私にとって大切なのは場所の大きさだけではありません。
どこであっても、その人が自分の人生を選ぶための装いを作りたい。美しい部分だけを切り取るのではなく、悔しさも、迷いも、影も含めて美しい。
私のコンセプトは、「光と影の中で、なお美を選ぶ」。
これからも服を通して、自分の感覚を信じること、人生の主権を取り戻すことを伝えていきたいです。