「お母さんになると、自由がなくなる」──幼い頃に見ていた家庭の景色
ー 幼少期は、どんな家庭で育ったんですか?
父方がすごく大きな家族で、祖父が実業家、父はグループの代表をしていました。父は7人兄弟で、親族が頻繁に“本家”に集まる家庭だったんです。
本家となる祖父母の家が徒歩5分くらいの場所にあって、法事や集まりも本当に多かったですね。
母は22歳で結婚して、23歳で私を出産しています。大学卒業後すぐに父と結婚したので、働いた経験がないまま“嫁”として家に入ったんです。
本家では、お嫁さんたちが交代で料理や掃除、法事の準備などを担当していて、母もよく祖父母の家へ通っていました。
私は、そんな母が弟のおんぶをしながら料理をしたり、洗濯をしたりしている姿を、小さい頃からずっと見て育ったんです。
父はとても厳格で、「お茶」と言えば母が動くような昭和的な家庭でした。
だから子どもの頃から、「お母さんばっかり大変そう」「女性は結婚すると、自分の自由ってなくなるんだな」って感じていました。
今思うと、それが“女性の生き方”について考える最初の原点だったのかもしれません。
優秀な一族の中で、“できない自分”に苦しんだ少女時代
ー 子どもの頃は、どんな性格だったんですか?
どちらかといえば、おとなしい子でした。
絵を描いたり、本を読んだり、図書館へ行ったりするのが好きで、シルバニアファミリーで遊んだりしていました。
今みたいに人前に立つタイプでは全然なくて、リーダータイプでもなかったです。
小さい頃は、絵本作家になりたかったんですよね。
物語を読むことも好きでしたし、自分でも絵を描いたりしていました。
ただ、家は教育熱心だったので、2歳から幼児教室へ行って、幼稚園受験、小学校受験、中学受験、バレエ、ピアノ、そろばん、水泳、絵画教室、アイススケート教室という環境でした。
父方の親族は医者や経営者も多く、いとこ達もみんな勉強ができたので、私は小さい頃からずっと“比較される環境”の中にいたんです。
でも私は、その競争型の教育が本当に苦手でした。
周りはちゃんと結果を出していくのに、自分だけうまくできない感覚があって、「自分はダメなんだ」と感じることも多かったですね。
受験とストレス──心が限界を迎えた小学生時代
ー 中学受験の時期は、かなり苦しかったそうですね。
はい。本当に苦しかったです。
小学校4年生くらいから本格的に受験塾へ通い始めたんですけど、その環境に全然適応できなかったんですよね。大好きだったバレエや絵画教室もやめて、学校が終わったら塾にお弁当を持っていって、夜まで勉強して、帰宅後も宿題。
今思うと、小学生なのにブラック企業みたいな生活でした。
でも、弟やいとこ達はちゃんと適応できていたんです。
私は宿題をゴミ箱に捨ててしまったり、勉強が嫌で寝てしまったりしていました。
父に見つかって怒られたり、寝ていたら水をかけられて起こされたこともありました。
父自身も厳しい家庭で育っているので、「努力するのが当たり前」という感覚だったんだと思います。
でも私は、その競争環境が本当に苦しくて。
ストレスで、自分の髪を抜き始めてしまったんです。
円形脱毛みたいになってしまって、完全に心が限界だったんだと思います。
そんな時に、母が「そんなに嫌なら受験をやめていいよ」と言ってくれました。
その言葉に、すごく救われて一度は受験塾をやめました。
女子校へ──“女の子らしさ”への違和感
ー その後、再び受験をすることになるんですよね。
はい。
きっかけは、小学6年生の時に、男の子との噂を立てられたことでした。
別に好きでもないのに、「付き合ってる」みたいに言われて、それがものすごく嫌だったんです。
当時は「クラスで誰が好き?」とか、「好きな芸能人は?」みたいな空気も苦手でした。
誰も好きじゃないのに、無理に答えなきゃいけない感じが昔からあまり得意じゃなかったんですよね。
“女の子らしさ”みたいなものを押し付けられる感じに、どこか違和感を持っていました。
それで、「男子のいない世界に行きたい」と思って、自分から女子校を希望したんです。
今思うと、それが人生で初めて“自分の意思”で決めた選択だったのかもしれません。
中学から女子校へ進学してからは、男子の目を気にしなくていい環境に少し安心感がありました。
ただその頃は、校則も厳しくて、その反動もあって渋谷や池袋のカルチャーに惹かれていました。
当時のガングロ文化やルーズソックス文化って、“普通じゃなくていい”みたいなエネルギーがあったんですよね。
学校とは違う世界があることに、どこか救われていた部分もあったと思います。
17歳で父を亡くした日
ー 17歳の時に、お父様を亡くされたんですよね。
はい。父が病気で突然亡くなりました。まだ40代でした。
本当に突然で、家族にとっても大きな出来事でした。
でも、その後がもっと大変でした。
母は、祖父母との関係の中で、いろいろと気を遣ったり、悩んだりすることも多かったようです。
当時は、今では考えられないような厳しい時代でもあったのだと思います。
それでも、母は“嫁”をやめませんでした。
法事や親族対応も続けていて、ずっと“お嫁さん業”をしていました。
その姿を見ながら、「女性って、もっと自由に生きていいんじゃないかな」って思うようになりました。
今、自分がミセスコンテストを運営しているのも、母の存在がすごく大きいと思います。
大学時代──ミスコン優勝がくれた人生の転機
ー 大学時代にミスコンへ出場されたことも、大きな転機だったそうですね。
大学生のときに、広告研究部の人から「出てみませんか?」と言われたことがきっかけでした。
でも、最初から自信があったわけでは全然ないんです。
むしろ、ずっと自己肯定感は低かったと思います。
小さい頃から比較される環境で育ってきましたし、「自分はできない」と感じることも多かったので、人前に出るのも得意じゃありませんでした。
でも、実際に挑戦してみたことで、自分の中の価値観がすごく変わりました。
ありがたいことにミスキャンパスとして優勝もさせていただいたんですけど、一番大きかったのは、“結果”というより、“挑戦した経験”だったんですよね。
しかも、ミスコンを通じて出会った他大学の学生達が本当に刺激的だったんです。
起業している人、世界一周をしている人、自分の夢に向かって行動している人。
それまでの私は、自分の世界しか知らなかったんだなって思いました。
「人生って、自分で広げていけるんだ」って、その時初めて感じた気がします。
ミス・ユニバースで味わった挫折
ー その後、ミス・ユニバースにも挑戦されています。
はい。2007年のミス・ユニバース・ジャパンへ挑戦しました。
でも、そこで大きな挫折を経験したんです。
周りには帰国子女の方も多くて、みんな英語が堪能でした。
私は全然話せなくて、自分の未熟さを痛感したんですよね。
「世界を目指したい」と思っていたのに、自分はそのスタートラインにも立てていない気がしました。
でも、その経験が逆に、「英語をちゃんと学ぼう」という強い原動力になりました。
香港へ──海外で見た、“自由に生きる女性たち”
ー 大学卒業後、すぐ香港へ行かれたんですよね。
はい。卒業式の3日後には香港へ行っていました。
モデル事務所に所属して、広告モデルなどのお仕事をしていました。
香港、タイ、中国など、アジアを中心に活動していたんです。
海外へ行って最初に驚いたのは、女性たちの“生き方”でした。
結婚していても、子どもがいても、自分の夢や仕事を持っている女性がたくさんいたんです。
シッターさんの存在も特別なことではなく、“お母さんだけが全部を背負わなくてもいい”
という感覚が、ごく自然だったんです。
しかも、それを誰も特別視していなかった。
私は、“女性は家族のために生きるもの”という価値観を見て育ってきたので、その違いがすごく衝撃でした。
また、中国で参加したミスコンテストの世界大会では、「本当に美しい人って、周りに与えられる人なんだ」ということも感じました。
自分だけが輝こうとしている人ではなく、“自分ができることで場に貢献しようとしている人”の方が、美しかったんです。
その感覚は、今の活動にもすごくつながっています。
ロンドン大学大学院と、40カ国を巡る世界一周
ー その後、イギリス大学院へ進学されています。
はい。20代後半でロンドン大学ロイヤルホロウェイ校へ進学して、応用社会心理学を学びました。
英語も決して得意な状態ではなかったので、本当に必死でした。
でも、「世界を知りたい」「もっと自分を成長させたい」という気持ちの方が強かったんです。
今振り返っても、人生で一番、自ら学びに向き合った時間だったと思います。大学には24時間OPENの図書館があり、クラブやバー、ジム、寮も全てキャンパス内にあるような環境で、 勉強も遊びも全力で向き合っていました。
世界中から集まった人たちと出会い、たくさん話し、学び、自分の価値観が大きく広がっていく感覚がありました。
本当に、濃くて充実した時間だったと思います。
大学院卒業後は、世界一周航空券を使って、約7ヶ月かけて40カ国ほどを一人で回りました。
各国にいる友人を訪ねながら旅をしていたんです。
もちろん楽しいことばかりではなくて、大変なことや危険な経験もありました。
でも、そういう経験も含めて、「人生って何が起こるか分からない」「だからこそ、やりたいことをやろう」って強く思うようになりました。
世界を回って感じたのは、“幸せの形”は一つじゃないということでした。
肩書きや年齢ではなく、自分らしく生きている人がたくさんいたんです。
その経験は、今の価値観の土台になっています。
広報の仕事で学んだ、“社会に価値を届ける力”
ー 帰国後は会社員も経験されています。
はい。28歳で日本へ帰国して、人材紹介会社へ入社しました。
でも、自分にはあまり合わなくて、4ヶ月ほどで退職しました。
その後、上場IT企業へ転職して、広報の仕事を担当することになったんです。
そこでは、自分で勉強会を企画したり、PR活動をしたり、メディアとの関係づくりを行ったりしていました。
日経新聞に記事を掲載していただいたこともあって、「社会に価値を届ける」ということの面白さを強く感じましたね。
ただ、会社員として働きながらも、自分の人生を変えてくれたコンテストを、今度は誰かの人生を変える場所として届けたい。という気持ちはずっとありました。
私は昔から、“人と人をつなぐこと”や、“誰かの挑戦を応援すること”に強くやりがいを感じるタイプだったんです。
だから少しずつ、「いつか自分で、女性たちが挑戦できる場を作りたい」という想いが大きくなっていきました。
世界一、そして「女性が挑戦できる場所を作りたい」という決意
ー 30歳で世界大会に挑戦されています。
はい。有給休暇を使って世界大会へ挑戦しました。
そして2015年、「World Beauty Queen」で日本人初のグランプリをいただいたんです。
もちろん嬉しかったです。
でも、不思議と「もっと有名になりたい」という感覚ではなくて、「この経験を、自分だけのものにして終わらせたくない」と思いました。
世界大会へ挑戦したことで、自分に自信を持てるようになったんです。
そして同時に、「挑戦によって人生は変わる」ということを、自分自身が実感しました。
大会のスピーチでは、「年齢関係なく、女性が挑戦できる場を日本に作りたい」と話していました。
幼い頃から、母が“嫁”として自分を後回しにして生きてきた姿を見てきました。
だからこそ私は、「女性はもっと自由に、自分の人生を生きていい」とずっと思っていたんです。
世界大会を終えた時、その想いが、“いつか”ではなく、“今やるべきこと”に変わりました。
Bellissima Japan創業──女性たちが挑戦できる舞台を作る
ー そこから起業へつながっていくんですね。
はい。2016年にBellissima Japan株式会社を設立しました。
最初から「経営者になりたい」というより、“女性たちが挑戦できる場所を作りたい”という想いの方が強かったです。
女性って、結婚や出産、年齢などを理由に、「もう遅い」とか、「自分なんて」と思ってしまうことが多いと思うんです。
でも私は、海外でミセスコンテストに出場するたくさんの輝く女性達を見てきました。
結婚していても、子どもがいても、自分の夢を諦めずに生きている女性たちです。
だから日本でも、「年齢や環境に関係なく挑戦できる場所」を作りたいと思いました。
ミセスユニバースジャパンをはじめ、女性達が“自分の人生を取り戻すきっかけ”になるような舞台を作りたい。
それが、Bellissima Japanを立ち上げた理由でした。
もともと活動自体は会社員時代から、元ミスコン日本代表の3人で立ち上げた社団法人からスタートしていたんです。
「経験をつなぎたい」という想いで始めた活動でした。
そしてBellissima Japanを設立してから、活動は少しずつ大きくなっていきました。
世界大会とのライセンス契約も増えて、日本一、世界に最も多くの日本代表を輩出する団体へ成長していったんです。
Bellissima Japanからは、パリコレモデルになった女性や、世界大会で優勝した女性・男性など、コンテストへの挑戦をきっかけに、自分でも想像していなかった可能性を大きく開花させていく方々が生まれていきました。
「挑戦によって人生は変わる」ということを、目の前で何度も見ることができたのは、本当に嬉しかったですね。
難病発覚──夢の拡大とともに訪れた、最大の試練
ー 活動が大きくなる中で、大きな苦しみも経験されたそうですね。
はい。
活動が広がっていく一方で、理想だけでは進めない現実や、人間関係の難しさに悩むことも増えていきました。
私は、“女性の挑戦を応援したい”という想いで活動していたので、そのギャップに苦しさを感じることも多かったんです。
そんな頃、人間ドックを受けたことで、脳血管の難病「もやもや病(ウィリス動脈輪閉塞症)」が見つかりました。
頭を15センチ開く大手術を受けて、術後はICUで2日間眠ったまま。
目が覚めた時には、右半身がまったく動かなかったんです。
本来なら、長期間安静にして回復に専念しなければいけない状態でした。
でも当時は、会社も大会運営も抱えていて、休める状況ではありませんでした。
退院後は投薬治療をしながら、早い段階で仕事へ復帰したんです。
ただ、体に負荷をかけ続けたことで、強い薬の副作用も出て、心にも余裕がなくなっていきました。
そして、人間関係のストレスや、活動への理想と現実のギャップも重なり、 私は周囲に対して感情的になってしまうことが増えていきました。
その結果、半分以上の仲間を失いました。
夢を実現するために始めた活動だったのに、気づけば孤独になっていく感覚がありました。
さらにその後、コロナ禍に突入して、大会は無観客開催に。完売していたチケットを全額返金しなければならず、大赤字も経験しました。
本当に、人生で一番苦しかった時期だったと思います。
どん底から救ってくれた、ミセスユニバースファイナリストたち
ー そこから、どうやって立ち直っていったんですか?
私を救ってくれたのは、ミセスユニバースジャパンのファイナリストたちでした。
2020年のコロナ禍は、「こんな時代だからこそ、何か自分にできることをしたい」とコンテストに挑戦するミセス世代の女性たちが、本当に増えた年だったんです。
離婚を経験された方。
DV被害を受けた方。
癌サバイバーの方。
皆さん、それぞれ人生の中で大きな苦しみを経験しながら、それでも前を向こうとしていました。
そんな方たちから、
「ミセスユニバースに挑戦して、初めて自分で自分の人生の舵がとれた」
「ずっと嫌いだった自分を、少し好きになれた」
「自分の使命に気づけた」
そんな言葉を、たくさんいただいたんです。
それまでは、同年代や年下の男女をサポートすることが多かったんです。
年齢に関係なく、日本でも女性が輝ける場を作りたいという気持ちは、起業前からずっと強くありました。
ただ、当時の私は未婚だったこともあり、
「自分に、人生経験豊富な年上の女性たちを支えられるんだろうか」
と思っていた部分もありました。
ミセスユニバースジャパンの主催を通して、
お母さんたちが少しずつ自信を取り戻し、輝いていく姿を目の当たりにしたんです。
その時に、
私だからこそ届けられるものもあるのかもしれない——
そんなふうに感じられた出来事でした。
競争ではなく、“共創”を広げたい
ー なぜ今も、コンテスト運営を続けているのでしょうか?
実は私は、人の美しさに順位をつけて競い合うこと自体には、そこまで興味がないんです。
どちらかというと、“競争”より“共創”に価値を感じています。
もちろんコンテストなので、全員が優勝できるわけではありません。
でも、それでも私がこの活動を続けているのは、
一歩踏み出すことで、人の人生が変わる瞬間を何度も見てきたからです。
新しい世界に飛び込むことで、
人は自分を好きになれたり、自分の使命に気づけたりする。
そして、自分だけじゃなく、社会へ“与えられる人”になっていく。
私は、その姿をたくさん見てきました。
だからミセスユニバースジャパンの開催は、私にとって“自己実現”であり、“社会貢献”なんです。
そして今、日本中でミセスコンテストが広がっていること、
そして年齢を重ねてからも、自分の人生に向き合おうとする大人が増えていることを、とても前向きに捉えています。
年齢や環境に関係なく、女性が自分らしく生きられる社会。
それは、私がずっと作りたかった世界なんです。