ファッションを楽しめる社会へ
磯谷 陽子
Isogai Yoko全国
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骨格診断やパーソナルカラー診断による「選ぶ基準づくり」から、服選びの実践サポート、クローゼット整理、ブラインドメイクまで、一人ひとりの見え方や暮らし、好みに合わせて総合的に支援します。必要に応じて、ご希望や条件に合う美容室・理容室の候補もご提案し、服・メイク・髪までトータルで装いを整えます。
「触感・言葉・知識」を手がかりに、自分で考え、選び、装う力を育てるファッション講座を行っています。また、オンライン座談会や情報発信を通して、当事者同士が経験や工夫を共有し、ファッションについて安心して話せる場を作っています。
企業や店舗と連携し、商品情報の伝え方や接客、売り場づくりなど、ファッションにおけるアクセシビリティの向上に取り組みます。
また、盲学校と連携し、服や素材に実際に触れながら、色や形、着こなしを学べるファッション教育を取り入れ、学ぶ機会を広げることを目指しています。
千葉県市川市で、父、母、兄と暮らす4人家族の長女として育った。両親からたくさんの愛情を注がれ、自分がやりたいと望んだことを尊重してもらえる家庭だった。人前に出ることにも物怖じせず、活動的で、誰かに勧められれば「やってみよう」と自然に一歩を踏み出した。自分の意思を受け止めてもらえる安心感が、まず動いてみる強さを育ててくれたのだと思う。
小学生の時、本当は華やかなバトン部に入るつもりだった。ところが、運動神経が良かったことから、先生にミニバスケットボール部へ誘われ、「せっかく誘ってもらったなら」と入部を決めた。軽い気持ちで始めたものの、練習は想像以上に厳しかった。それでも、一度始めたことを途中で投げ出すという発想はなく、中学、高校までバスケットボールを続けた。
児童会などの代表を頼まれた時も、ためらわず引き受けた。頼ってもらえたら、期待以上のものを返したい。それは当時から変わらない私の性分だった。今、目の前の一人に120%で向き合う仕事の仕方も、この頃から始まっていたのだと思う。
求められる場所へ飛び込み、簡単にはあきらめない。後に人生の大きな壁を越える力は、愛情に守られた家庭と、バスケットボールの日々の中で育っていった。
小学生から高校卒業までの12年間、生活の中心はバスケットボールだった。朝から晩まで練習し、遊びに出かける同級生たちをうらやましく思いながら、「きつい、辞めたい」と心の中で何度もつぶやいた。それでも、実際に辞めようとは思わなかった。つらさや悔しささえ笑いに変えられる、互いを理解し合える仲間がいたからだと思う。
高校の顧問は特に厳しく、当時、流行していた短いスカートやルーズソックスも許されなかった。おしゃれを楽しむ時間も、放課後に友達と遊ぶ余裕もなく、「高校生活は部活だけだった」と感じるほどだった。自由に過ごす同級生を横目に、自分だけが抑えつけられているような窮屈さもあった。それでも、仲間と笑い合いながら同じ日々を重ねる中で、始めたことを簡単にはあきらめず、最後までやり遂げる力が自然と身についていった。バスケットボールを通して出会った仲間は、今も変わらない一生の仲間である。
後に、就職氷河期のさなかに数多くの会社に落ちた時も、10年間のブランクを経てパートの採用に苦しんだ時も、家族から新しい挑戦に反対された時も、「あきらめずに次へ」と動けたのは、この12年間があったからだと思う。バスケットボールは、華やかな青春を与えてくれたわけではない。その代わり、うまくいかない日にも立ち上がり、続けた先で自分の答えを見つける粘り強さを残してくれた。
高校卒業後は、英語が好きだったことと客室乗務員への憧れから、英文系の短期大学へ進んだ。部活動に縛られてきた反動もあり、それまでできなかったことを全部楽しみたいと、一気に解放されたような学生生活を送った。けれど、短大は2年間しかない。1年が過ぎれば、すぐに就職活動が始まる。楽しむことに夢中で、将来に向けた準備を十分にできないまま、その時を迎えた。
折しも就職氷河期の始まりで、目指していた客室乗務員の正規求人そのものが出ない年だった。派遣という選択肢はあったが、「そこまでして目指す仕事なのだろうか」と迷い、その道をあきらめた。後に、同じ夢を持つ友人たちが派遣から現場へ進んだことを知り、「私は選択を間違えたのではないか」と、初めて強い後悔を味わった。夢がかなわなかったこと以上に、自分で可能性を閉じたことが心に残った。
その後は、応募しても落ちることを何度も繰り返した。それでも、部活動で培った粘り強さで次の会社へ応募し続け、最終的に自動車を海外へ運ぶ海運会社へ就職した。英語に関わる仕事ができると期待したものの、配属は総務部。思い描いていた仕事とは違っていた。選べる状況ではない中で飛び込んだ最初の会社員生活は、「自分は何をしたいのか」という問いを、心の奥に抱え続ける時間になった。
総務の仕事は自分に合っていると評価されていたが、自分にはどうしても「ここではない」という感覚があった。職場の人たちは温かく、4年間働き続けたものの、もっと暮らしや美しさに関わる仕事がしたいという思いは消えなかった。
もう一つの夢だったインテリアコーディネーターを目指し、入社3年目頃から、仕事の後に夜間スクールへ通った。ようやく自分の道を選び直せる。そう思い、会社を退職した。
その頃、バスケットボールの社会人サークルで知り合っていた現在の夫との縁が深まり、25歳で結婚した。間もなく夫の実家がある東京都青梅市で同居が始まり、26歳で第一子、28歳で第二子を出産した。
縁もゆかりもない土地で、仕事に就く前に生活環境が次々と変わっていった。インテリアの仕事に就くという計画は、自分の意思とは違う方向へ押し流されていった。専業主婦になりたくて選んだわけではない。それでも、せっかく子どもを授かったのなら、今しかない子育てを楽しもうと気持ちを切り替え、約10年間、家庭に力を注いだ。
一方で、友人たちが仕事の経験を重ね、専門性を身につけていく姿を見るたび、「私は何も積み上げていない」という思いが胸を刺した。家族を大切にしたい気持ちの裏で、自分のやりたいことに蓋をしている。その苦しさに、気づかないふりをしていた。
子どもたちが成長し、同居していた義母が定年を迎えた頃、今度は自分が外へ出ようと決めた。ところが、約10年のブランクがある履歴書では、短時間のパートにさえなかなか採用されない。「子育てしかしてこなかった自分は、何の役にも立たないのかもしれない」と、押し込めていた劣等感が一気にあふれた。それでも応募を続け、ようやく市役所の窓口業務に採用され、4年間働いた。
久しぶりに社会とつながり、人前に出るために服を整えるうち、もともとおしゃれが好きだった気持ちが戻ってきた。長い専業主婦生活では、自分のために服を買うことを抑えていた反動もあり、「手頃な服ならいいだろう」と次々に買った。やがてクローゼットはいっぱいになり、たくさん持っているのに、着る服がない。扉を開けるたび、「私は何をしているのだろう」と自己嫌悪を感じた。
そんな時、骨格診断やパーソナルカラー診断という「似合う理論」があることを知った。感覚だけで選んできた服にも、理由を言葉で説明できる世界がある。もっと知りたい。できれば、好きなことを仕事にしたい。淡い期待を胸に、市役所で働きながら、骨格診断とパーソナルカラー診断の資格を取得した。
あふれたクローゼットは失敗の象徴ではなく、家族の後ろに置いてきた自分を、もう一度迎えに行く入口になった。
資格を取っても、それをどう仕事につなげればよいのか分からなかった。友人を診断してみても、集客は思うようにいかない。そこで、同じ協会で先に活躍していたパーソナルスタイリストについて徹底的に調べ、自分から連絡を取った。
「興味があるなら、私のもとでやってみる」
そう声をかけられ、ほとんど即答で「やります」と答えた。ちょうどその頃、市役所の契約が更新されないことが決まった。次の仕事を探すのなら、今度こそ本当にやりたいことに挑戦しよう。そう決めて、新しい道へ進んだ。今振り返れば、契約が終了したことが、人生を動かす大きな転機になった。
しかし、家族からは強く反対された。「よく分からない仕事のために都心へ出て、妻や母としての役割をおろそかにするのか」と問われた。私自身の気持ちを尊重してもらえないように感じたことが、何よりつらかった。
それまで、周囲に合わせ、波風を立てずに生きてきた。そんな私が、初めて「私はこの道へ行く」と意思を貫いた。仕事で都心へ出かけたり、帰宅が遅くなったりするたびに、家族への気まずさや後ろめたさを感じた。それでも、やりたいことを再び諦める道は選ばなかった。
約3年間、別のパートと掛け持ちしながら、診断、買い物同行、クローゼット整理、販売、営業など、来た仕事にはすべて挑戦した。カリスマ性のある師匠と自分を比べ、劣等感に苦しむ日も多かった。
広く浅く80%で次へつなげるより、一人に120%を注いでしまう。そんな自分を不器用なのだと思っていた。けれど、その不器用さこそが、一人ひとりに深く向き合う自分の良さなのだと気づいた。2023年、恩を感じていた師匠のもとを離れ、自分の信じる形で仕事をしていく道を選んだ。
修業を始めた2019年、先天的にほとんど視力のない方から、ファッションサポートを依頼された。その依頼を受けて初めて、自分もまた「見えること」を前提に、ファッションを学び、伝えてきたのだと気づかされた。何ができるのかは分からなかった。それでも、頼ってもらった以上、全力で応えたいという気持ちに迷いはなかった。
普段どのように服を選び、管理し、何に困っているのか。一つひとつ教えてもらいながら、その方と一緒に必要な方法を探していった。
その後、紹介された別の全盲の方は、色も自分の顔も見たことがない中で、服やメイクを心から楽しみたいと願っていた。けれど、色や形、着たときの印象など、服を選ぶための情報の多くは、視覚で確認できることを前提に伝えられていた。
そこで、骨格診断やパーソナルカラーの理論を使い、似合う理由を具体的な言葉で伝えた。クローゼットでは、服の要不要を一着ずつ一緒に確認し、本人の使いやすさを確かめながら置き場所を整えた。買い物では、まずなりたいイメージを明確にし、素材やサイズ感、選ぶ際のポイントを、触感と言葉で一つひとつ確かめていった。
私が目指したのは、服を選ぶという結果だけを届けることではなく、なぜそれを選ぶのかという過程を共有し、本人が自分で理解し、納得して選べるようになることだった。
やがて、その方は場面に合わせて自らコーディネートを考え、家族や友人から褒められたことを報告してくれた。その姿を通して、選ぶために必要な情報の伝え方や環境が整えば、視覚情報がなくてもファッションを楽しめるという実感が、確信へと変わった。
見えないことそのものが壁なのではない。服を選ぶための情報や環境が、「見えること」を前提としていたことに課題があった。この気づきが、BLIND FASHIONの始まりとなった。
修業を始めた2019年以降、一人ひとりに深く向き合う仕事の姿勢が信頼と紹介につながり、視覚に障害のある方からの依頼も増えていった。2023年に独立してからは、女性だけでなく、結婚相談所を通じて婚活中の男性を支援する機会も生まれた。これまでに、70〜80人ほどの視覚障害のある方へファッションサポートを届けてきた。
手持ちの服を整理し、必要なものを一緒に考え、選ぶための基準を言葉で伝える。実際に組んだコーディネートについて質問に答え、求められたときにはアドバイスをする。その積み重ねによって、一人ひとりが自分の力で装いを楽しむ姿を見てきた。
ファッションは、見える人だけのものではない。誰かに「これでいい」と決めてもらうのではなく、自分が好きなものや似合うものを知り、自分で選び取れることに価値がある。
かつて専業主婦として自分を後回しにし、「何も積み上げていない」と感じた経験があるからこそ、環境や役割によって「楽しみたい」という気持ちを押し込めている人を、そのままにしたくない。一人ひとりが変化していく過程に最後まで伴走することが、今の私の喜びになっている。
これからは、当事者一人ひとりへの支援だけでなく、「見えること」を前提につくられているファッションの仕組みそのものを変えていきたい。
私一人で届けられる人数には限りがある。だからこそ、同じ志を持つ仲間を増やし、企業や関係者とも協力しながら、必要な情報や専門的なファッション支援に、誰もがたどり着ける環境をつくる。
見え方にかかわらず、装う喜びと選ぶ自由が当たり前にある社会へ。
一人に120%で向き合うことで生まれた変化を、社会全体の変化へつなげていく。
忙しい中でも時間をつくり、部屋や身の回り、外見、予定まで整い、心に余白が生まれた時です。
やりたいことがあっても、あえて後回しにし、家族と過ごす時間をつくることです。その余白が、私自身を整えることにもつながっています。
家族の反対を受けながらも、初めて自分のやりたいことを選び、一歩踏み出したことです。それまで周囲に合わせ、波風を立てずに生きてきた私にとって、自分の意思で人生を選び直した大きな転機でした。
自分の力や可能性が誰かの役に立ち、その価値に対して対価をいただける。私にとって仕事とは、そんな喜びと幸せを感じられるものです。
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