南 美沙
Minami Misa東京都
東京都
企業とインフルエンサーが直接つながり、商品・サービスとの新しい出会いを生み出す日本最大級のインフルエンサーイベントを企画・運営しています。企業の魅力を実際に体験し、発信者自身の言葉で生活者へ届けられる場を設計することで、単発のPRにとどまらない継続的な関係づくりを支えています。
多様な分野で活躍するインフルエンサーの価値と功績を社会へ伝え、日本を代表するクリエイターを表彰するアワードを主催しています。数字だけでは測れない発信の影響力や社会への貢献にも光を当て、クリエイターが誇りを持って次の挑戦へ進める機会をつくっています。
約3,500名のインフルエンサーが登録するキャスティングプラットフォームを運営しています。企業が案件に合う人材を直接募集できる環境に加え、SNS戦略、アカウント運用、企画、クリエイティブ制作、俳優・タレントを含むキャスティングまで一貫して支援し、ブランドと発信者の魅力が正しく届くプロモーションを実現します。
横浜で、日本人の父と台湾出身の母のもとに生まれた。父が不動産会社を経営していたこともあり、幼い頃は経済的に恵まれた家庭で育った。家には、家事や子育てを支えてくれる人たちが行き交い、末っ子だった私は「お嬢ちゃん」と呼ばれながら大切に育てられた。台湾の文化にならい、家の中には看板ほどもある大きな家族写真が飾られていた。幼い頃の記憶に残るのは、誕生日を祝う声と、自分が愛されているという安心感だった。
母の体調が優れない時期もあり、家族だけでなく周囲の大人たちが暮らしを支えていた。いろいろな背景を持つ人が一つの家に集う環境は、人への関心と、相手の空気を感じ取る感受性を育てた。明るさだけでは割り切れない家庭の中でも、人とつながることで安心できることを、幼いながらに知っていった。
ピアノ、バレエ、演劇など、習い事は週に9つほど。興味を持ったら、まずやってみたい。飽きるのも早かったが、新しい世界へ飛び込むことを怖がらない子どもだった。演劇では、感情を開いて表現することを褒められた。人の心が動く瞬間が好きだという感覚は、後のモデル・俳優活動、そして人を巻き込む事業づくりの原点になっている。
小学5年生の頃、不動産会社を営んでいた父の事業が厳しくなり、それまで家を支えていた人たちが1人ずついなくなった。新しい家の計画も消え、暮らしの変化を感じ始めた頃、父が白血病で入院する。文化祭へ向かうはずだった日、代わりに病院へ行った記憶は今も残っている。約1年半の闘病の末、父は帰らぬ人となった。
「父さえ生きていれば、きっと何とかなる」。そう信じていた私にとって、父は家族を支える存在であり、最後の心のよりどころでもあった。その父を失い、住み慣れた家を離れ、私立校から公立校へ転校する。悲しみに立ち止まる間もないまま、それまで当たり前だった日常が次々と形を変えていった。
豊かな暮らしも、安心できる居場所も、決して永遠ではない。経済状況や周囲の環境によって、子どもが思い描ける未来や選べる進路まで変わってしまう。その現実を身をもって知ったことは、深い喪失感と同時に、「いつか自分の力で、もう一度未来をつくりたい」という思いを心の奥に残した。
母が遠方で働くようになり、兄も家を空けることが増えたため、中学2年生頃からは、ほぼ一人で暮らすようになった。限られた生活費を自分でやりくりし、食事も日々の判断も自分で担う。次の振り込みを待ちながら心細さを抱える夜もあったが、頼れる大人が家にいない以上、自分で何とかするしかなかった。
そんな日々を支えてくれたのが、友人とその家族だった。新しい学校や環境になじめず苦しい時も、声をかけ、居場所を分けてくれる人がいた。血のつながりだけが家族ではなく、人とのご縁が暮らしと心を支えてくれる。自分は一人で生き延びたのではなく、多くの人に助けられてきたのだという感覚が、後に仲間を大切にする姿勢へつながっていく。
勉強はできる方だったが、進学を当たり前に考えられる環境から離れ、将来の輪郭を見失っていった。高校生活にも十分にはなじめなかった一方、ダンスだけは夢中になれた。踊る時間には目標があり、努力する理由があった。状況に流されそうな自分をつなぎ止め、もう一度前を向かせてくれたのが、表現することだった。
高校在学中からダンサーとして舞台に立ち、卒業後も活動を続けた。「やると決めたら、極めたい」。その一心で練習を重ね、ダンススクールで教える立場も経験した。アルバイトで費用を貯めて海外へ渡り、ニューヨークのBroadway Dance Centerにも通った。知らない場所でも、自分から動けば学ぶ機会はつくれる。その実感を得た時期だった。
けれど、努力を重ねるほど、体格や体力の面で自分に向いていない部分も見えてきた。憧れていた先輩たちが、実力を持ちながら経済的には苦労している現実にも直面する。何か一つを懸命に続ければ、幼い頃に見ていた豊かな景色へ戻れると思っていた。だからこそ、好きなことと、長く生きていける仕事との間にある距離を知った時は、悔しさと迷いが残った。
一方、イベントやショーでは、その存在感を生かしてモデルの仕事を頼まれるようになった。ダンスを諦めたというより、表現する力が別の場所で求められていることに気づいたのだった。向いていない自分を責め続けるのではなく、自分の魅力がより生きる場所へ進む。この選び直しが、後のモデル活動への入口となった。
23歳で結婚し、息子を授かった。妊娠中、夫が仕事上の問題を抱え、家族の暮らしは一変した。突然の出来事に大きなショックを受けたが、結婚を誓った夫が苦しい状況にある中、自分だけが離れることは選びたくなかった。幼い頃に父を失った経験があるからこそ、「子どもから父親を取りたくない」という思いも強かった。家族を守ろうと、約3年半にわたり子育てと家庭を支え続けた。
しかし、自由に外で働くことが難しい中、貯蓄が減っていく暮らしへの不安は募っていった。子どもの未来を守るためにも、自分で収入を得る力が必要だった。子連れでも参加できる読者モデルを始め、自宅でできる仕事を探す中で株式投資に出会う。知識はゼロ。それでも関連書籍を10冊ほど読み、少額から試し、失敗と検証を重ねながら、自分で判断する力を身につけていった。
28歳で結婚生活を終えた時、胸にあったのは痛みだけではなく、「できることはやり切った」という安堵でもあった。息子と父親の関係は、離婚後も大切にした。自分が経験した寂しさを、そのまま子どもへ渡したくなかったからだ。誰かに人生を委ねるのではなく、親としての責任を果たしながら、自分の人生にも責任を持つ。その覚悟が、再出発の土台になった。
離婚後、長く制約の多い暮らしをしてきた私の心に、初めて「自分で選んでいい」という感覚が戻ってきた。子どもを育てる責任を全うする。そのうえで、残りの人生をどう生きるかは自分で決められる。時間は有限であり、もう自分の本音から逃げたくない。そう思った時、閉じ込めてきた願いが、はっきりと言葉になった。
もし、できるかどうかを考えなくていいなら、何になりたいのか。答えは、モデル、俳優、起業家だった。若い頃にも憧れはあったが、「なれるわけがない」と笑われることが怖く、夢を口にすることさえ恥ずかしかった。結婚へ逃げた部分もあったかもしれない。だから今度こそ、人の目を理由に自分を諦めない。「これ以上、失うものはない」。その覚悟で挑戦を始めた。
芸能事務所には年齢を理由に断られ、頼れる人脈もなかった。それでも、検索で見つけたモデル募集へ1件ずつ応募し、読者モデルの撮影会では編集者へ「仕事として本気でモデルになりたい」と自分から伝えた。そこで勧められたのがInstagramだった。道が用意されていないなら、自分で人に会い、言葉にし、機会をつくる。この時の一歩が、人生を大きく動かしていく。
Instagramを始めると、撮影や日々の活動を地道に発信し続けた。1枚を選ぶために何十枚、何百枚と撮り、自分らしい見せ方を試行錯誤する。やがてサーフィンを軸に、海やスポーツを感じさせる世界観が形になった。フォロワーが増えるにつれて、広告、雑誌、ファッションの仕事が届き、表紙にも選ばれた。所属先がなくても、発信と行動が新しい仕事を連れてきた。
モデルの仕事が安定すると、次は俳優の夢へ進んだ。方法が分からなければ調べればいい。映画関係者へ自分から連絡し、監督のワークショップへ参加した。サーフィンを続けてきた自身のイメージが作品に合うこと、発信力を作品にも生かせること、何より役を演じたいという思いを率直に伝えた。その行動が実り、2019年公開の映画『ライフ・オン・ザ・ロングボード 2nd Wave』でメインキャストに選ばれた。
経験の差を埋めるため、撮影までの時間は演技の練習に注いだ。作品は全国の劇場で上映され、国際線の機内上映にも採用。その後はCMや広告映像など、演技の仕事も広がっていった。私はこの経験から、運はただ待つものではないと知った。「運の正体も、行動力と人間関係」。自ら扉をたたき、出会った人との信頼に応えることが、次の機会を生むと実感した。
俳優として主演の話が進み、半年先まで予定を空けていた頃、コロナ禍によって企画が止まった。エンターテインメントの仕事が一斉に動かなくなる中、私は、以前から始めていた事業へ本格的に軸足を移す。SNSによって人生の可能性を広げてもらった自分が、今度は誰かの可能性を広げる仕組みをつくりたい。その思いが、株式会社MCLOUDの経営へつながった。
会社員経験がなく、企業向けのメールも、パソコンを使う仕事も、営業も、すべてが新しい世界だった。モデルや俳優は依頼された仕事に応える立場だが、経営者は自分から声をかけ、断られても人を巻き込み、仕事そのものをつくらなければならない。芸能出身であることから事業の本気度を疑われることもあった。悔しさを抱えながら、システム開発、営業、採用、組織づくりを一つずつ学び、言葉ではなく実績と誠実な対応で信頼を積み上げていった。
現在は、日本最大級のInfluencer’s EXPO、Influencer’s Award、約3,500名が登録するキャスティングプラットフォーム、SNS運用・キャスティング事業を仲間と展開している。目指すのは、自分一人が成功することではない。社員と組織を育て、企業とクリエイターが互いの価値を発揮できる関係を残すこと。発信する力によって、過去や環境に可能性を決められず、誰もが安心して夢を追える世界をつくるため、挑戦を続けている。
28歳で離婚し、子どもを育てながら自分の人生を選び直すと決めたことです。できるかどうかではなく、本当は何になりたいのかを問い、モデル、俳優、起業家の三つへ挑戦しました。
自分から声をかけ、相手の立場を理解し、信頼に応えることを大切にしています。一人の力に頼るのではなく、仲間が力を発揮できる仕組みと、企業とクリエイターの双方に価値が残る関係をつくります。
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