「自己肯定感の核」としての表現。封印された10代と、20歳の衝撃
――まずは、小林さんにとって「絵を描くこと」の原点について詳しく伺いたいと思います。幼少期から、表現に対してどのような感覚を持っていたのでしょうか?
小林: 私にとって、絵を描くことは単なる「得意なこと」や「趣味」といった次元の話ではありませんでした。それは、私の「自己肯定感の核」そのものです。
幼い頃から絵を描いて、「うまいね」と褒められる。その言葉のひとつひとつが、私にとっての「存在証明」でした。「褒められた。だから私はここにいていいんだ」「私は優れた人間なんだ」と、自分の価値を確認するための唯一無二の免状。それが絵だったんです。
大人になった今、画家という職業を選んでいますが、本質的な部分は変わっていません。絵を描いて自分をこの世に繋ぎ止め、その価値を日々アップデートしていく。その「価値を上げる作業」そのものが、私の人生なんです。ですから、画家という職業は、私の有限な人生の価値を上げていくための、最も純度の高い「媒体(メディア)」なのだと定義しています。
――しかし、その「核」を20歳まで封印して生きてこられましたね。その葛藤と「ぼんやり」した日々について聞かせてください。
小林: 父方の祖父が画家だったのですが、経済的に恵まれているとは言えない状況でした。そんな祖父を見てきた家族からは、ずっと「絵は趣味にしておきなさい」と言われ続けてきました。私自身、その言葉を呪文のように自分に言い聞かせ、一番大切な衝動をノートの端の落書きに閉じ込めていたんです。
進路も自分の芯とは無関係に、その時の偏差値や成績に見合った場所を選びました。大学では心理学科に入りましたが、今振り返ると、当時の記憶ってほとんど残っていないんです。夢がなく、人間関係も希薄で、写真すら残っていない。自分の本当の芯に触れず、他人の引いたレールを、文字通り「ぼんやり」と歩いていました。
――その日々を終わらせたのが、成人式での劇的な再会だったのですね。
小林: はい。あの日、会場で小学校時代の絵のライバルだった子に再会しました。彼女は晴れ着姿で、自分の個展のチラシを配っていました。その姿を見た瞬間、ハンマーで殴られたような衝撃が走りました。「この子は好きなことを、この年齢になるまで、自らの手で選び取って貫いてきたんだ」と。それに対して自分はどうだろうか、と。あまりの衝撃に立ち尽くしてしまいました。
その夜、頭の中に「人生は一度きりだ」という当たり前の言葉が、かつてない重みを持って響きました。成人式の後の飲み会も断り、翌日には大学に中退届を出しました。
――そこから、どのようにお父様やご家族を説得したのですか?
小林: 父の前で正座し、人生で初めて本音を言いました。「私は、絵で頑張っていきたい」と。それまでは臨床心理士になりたい自分を「演じて」小論文を書き、一番人気のゼミに合格したりもしていました。文章が得意だったので、期待される自分に「なりきって」書けてしまったんです。でも、それは偽物でした。
正座して伝えた私の覚悟を見て、父は「わかった」と受け入れてくれました。後から聞けば、私が大学でどれほどつまらなそうに過ごしていたか、親はすべて見抜いていたようです。自分の軸に対して素直に生きると決めたその瞬間から、私の本当の人生、そして「戦い」が始まりました。
実績ゼロから「信頼」を勝ち取る。自ら仕掛けたブランディング戦略
――専門学校へ進み、いよいよ「画家」としてのキャリアが始まりますが、実績・知名度ゼロからどのようにして「小林舞香」というブランドを構築されたのでしょうか?
小林: 専門学校を卒業する際、インターンでイラストレーターやキャラクターデザイン、コンテライターといった「絵に関わる仕事」を一通り経験しました。でも、どれも自分には合いませんでした。
私は「誰かの指示通りに描く職人」を求めているのではなく、「小林舞香という世界観」そのものを価値として認めてもらいたかった。そのためには、まず信頼(クレジット)を自ら作り出す必要がありました。
最初のステップは、ウェブ上に自分の「住所(プラットフォーム)」を持つこと、つまりホームページの作成でした。当時の予算10万円ほどで、まずは「私がこの世に存在し、こういう世界を持っている」という証拠をネット上に配置しました。
――プラットフォームを作った後、どのように「市場」と繋がっていったのですか?
小林: 次のステップは、圧倒的な「エリア戦略と実績の可視化」です。実績のない画家に誰も高いお金は払いません。そこで私は、表参道、原宿、渋谷といった感度の高いエリアの「カフェギャラリー」に目をつけました。カフェギャラリーは「壁を無償で貸す代わりに、集客をしてほしい」という仕組みが多いんです。私はその期待に応えるべく、「毎月必ず、欠かさず展示を行う」というルールを自分に課しました。
大切なのは、会場に「活気ある景色」を生み出すことでした。当時はミクシィのコミュニティを活用し、アート好きが集まる掲示板すべてに毎月告知を投稿しました。レセプションパーティーを開いて人を呼び、賑わっている会場の様子を記録に残す。「多くの方に支持されている」という客観的な事実は、それだけで「この作家には確かな価値がある」という信頼の土台になります。その実績をホームページに蓄積していくことが、次なる大きなチャンスを呼び込むための何よりの証明になりました。
――そして23歳、ニューヨークでの個展という大勝負に出ます。これも戦略の一部だったのでしょうか?
小林:もちろんです。貯めていたバイト代をすべて注ぎ込んで行ったNY個展の真の目的は、日本国内での活動をより確かなものにするための「逆輸入のブランディング」でした。現地で自分の絵がどう受け止められるかを試すのはもちろんですが、それ以上に「ニューヨークという本場で挑戦し、実績を作ってきた」という事実と、その熱量を伝える記録を持って帰ることが、日本での信頼を数段引き上げる鍵になると考えていたんです。
その挑戦の結果、帰国後には様々なトップアーティストの方々とご縁をいただき、コラボレーションの仕事へと広がっていきました。20代は、人との繋がりを大切にしながら、自らの価値を社会の中で研ぎ澄ませていくことを徹底していました。
地方移住で見つけた「場所とコミュニティ」の可能性
――活動の拠点を東京から山形へ移されました。この大きな決断の背景には何があったのでしょうか?
小林: きっかけはコロナ禍での活動制限でした。ロックダウン下の東京で身動きが取れなくなった時、「東京にいる時間がもったいない」と直感したんです。
これまで刺激を求めてニューヨークやロンドン、フィリピンなど海外へ飛び出してきた私ですが、今度は国内に目を向けようと考えました。そこでTwitter(現X)で「47都道府県に無償で壁画を描きます。困っている場所があれば連絡ください」と投稿したんです。
――それが山形移住へと繋がるのですね。
小林: 投稿は6,000リツイートを超え、全国から依頼が来ました。結局25箇所ほど回ったのですが、これはボランティアであると同時に、自分にとって最もレバレッジが効く「理想の拠点」を探すマーケティング調査でもありました。
一箇所に1週間から10日滞在して絵を描くと、その土地の空気感やコミュニティの温度が手に取るように分かります。その中で、圧倒的に「コミュニティへの参加しやすさ」を感じたのが山形でした。
――具体的に、どのような出会いがあったのですか?
小林: 都内で壁画を描いていても、区役所の人が声をかけてくれることはまずありません。でも山形では、制作している私の姿を見た市役所の方が「県の事業に参加してくれないか」と声をかけてくれたんです。
移住後も、蔵王温泉街の旅館6軒を1週間ずつ巡って滞在制作をしたり、地元の特産物のラベルをデザインしたり。自分の作品が街の風景を変え、それが新聞やテレビで大きく紹介される。「小林舞香がいることで街の価値が変わる」という手応えを、恐ろしいほどのスピードで実感できたんです。
東京という巨大な市場の「その他大勢」として消費されるのではなく、山形で、当事者として価値を高めていく。この「場所の再定義」が、私のアーティストとしての信頼を、全く新しい次元へ引き上げてくれました。
出産と「時間の制約」がもたらした考え方
――移住を経てご結婚、そして現在は二児の母でもあります。「結婚も出産もしない」と言っていたかつての小林さんとは、価値観が大きく変わりましたね。
小林: はい、36年間ずっと「家族を持つことはリスクでしかない。私は画家として一人で死ぬんだ」と思っていました。でも、山形で人と関わる喜びを知り、一人で戦うよりも「チーム」や「家族」と動くことで増幅する価値があると気づいたんです。
現在は2歳と0歳の子育て真っ最中ですが、このライフステージの変化が、私のビジネス思考を究極にまで研ぎ澄ませてくれました。
――育児による「制作時間の減少」は、ビジネスにおいてどのように作用しましたか?
小林: 出産を経て、1日12時間描けていた時間が4〜5時間へと激減しました。ここで多くの人は「規模を縮小しよう」と諦めますが、私は逆でした。「制約があるのなら、戦略・構造そのものを変えてしまえばいい」と考えたんです。
時間が減ったのなら、1枚の価格を引き上げられる仕組みを構築すればいい。物理的な限界というハードルに対し、根性論で挑むのではなく、価値の生み出し方という「構造」から再設計する。そのための「設計図」を書くことは、今の私の新たな挑戦であり、大きな楽しみでもあります。
40代の展望:空間価値と連動し、世界基準の資産へ
――これからの10年、40代はどのようなステージを見据えていますか?
小林: 40代は私にとって「本番の舞台」です。これまでの「誰と組むか」という個人依存の戦略から、これからは「空間そのものが持つ圧倒的な価値」に自分のアートを連動させるモデルへ移行します。
例えば、東南アジアの高級ショールームやホテルのラウンジ。高い審美眼を持つ富裕層が集まる「すでに価値が確立された空間」に私のエネルギーを焼き付けた作品を配置し、空間と作品が相互に価値を高め合う。空間の格が絵の価値を保証し、絵の存在が空間の質をさらに上げる、という「価値の共鳴(シナジー)」を世界規模で設計しています。
――最終的に、アーティストとしてどこを目指しているのでしょうか。
小林: 画家としての現実的な目標は、ニューヨークをはじめとした「世界基準で正当に評価される市場」において、一人の表現者としてその価値を確立することです。その過程として、今、凄まじい勢いで発展している東南アジアの市場を主戦場に選んでいます。
私の描く「女性像」は、蝶や花と同じ一つの「記号」であり、そこには私の生命エネルギーのすべてを投影しています。インテリアとして空間に「ただ馴染むもの」で終わるつもりはありません。視線が合った瞬間に魂を射抜き、一生消えない残像として居座り続ける圧倒的な引力。
私のアートという一点が、誰かの人生や街の歴史と交差し、そこになくてはならない「景色」として溶け込んでいくこと。
これこそが、私の画家としての使命です。